キューバ
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- キューバ共和国
- República de Cuba
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(国旗) (国章) - 国の標語 : Patria y Libertad
(スペイン語: 祖国と自由) - 国歌 : バヤモの歌

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公用語 スペイン語 首都 ハバナ 最大の都市 ハバナ 独立
- 日付スペインより
1821年9月15日通貨 キューバ・ペソ 時間帯 UTC -5(DST: なし) ccTLD CU 国際電話番号 53
キューバ共和国(República de Cuba)、通称キューバ(Cuba)は、カリブ海の大アンティル諸島に位置するラテンアメリカの共和制国家である。島国であり、ウィンドワード海峡を隔てて東にはイスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国が、ケイマン海峡を隔てて南にはケイマン諸島とジャマイカが、フロリダ海峡を隔てて北に145km先にはアメリカ合衆国のフロリダ州が存在する。首都はハバナ。
日本の本州の半分ほどの面積を持つ島国である。地理的には北アメリカに含まれるが、広義の中央アメリカにも含まれる。「アメリカ合衆国の裏庭」と俗に呼ばれたりするが、裏庭どころではなく、南北アメリカ大陸、及びヨーロッパとラテンアメリカを結ぶ要路に位置している。アメリカ州初の社会主義共和国として独自の道を歩んでいるため、「カリブに浮かぶ赤い島」と形容されることもある。
目次 |
[編集] 国名
正式名称はスペイン語でRepública de Cuba。通称、Cuba(クーバ)。
公式の英語表記は、Republic of Cuba。通称、Cuba(キューバ)。
日本語の表記は、キューバ共和国。通称、キューバ(玖瑪、玖馬、久場、古巴)。スペイン語で Cuba をクーバと発音するので、クーバと呼ぶ人もいる。
国名は、カリブ海最大の島であるキューバ島に依っており、「中心地」という意味のインディオ(タイノ族)の言葉であるクバナカン(Cubanacan、現在のオルギン)が由来であるとされている。
[編集] 歴史
詳細はキューバの歴史を参照
[編集] スペイン植民地時代
キューバには、当時アラワク族系のタイノ族や、シボネイ族、カリブ族と呼ばれる先住民がおり、温厚な性格の先住民は原始的ながら平和な暮らしを続けていた。1492年10月27日、クリストバル・コロンの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。
インディオ達は、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。
スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷産業を盛んにし、インディオの悲劇とは別に、キューバはスペインと中南米の中継地点として著しく発展を遂げ、スペイン領アメリカ植民地第三の都市としてとして発展したハバナには大学や要塞が建設された。
19世紀初め、シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティンらの活躍により、大陸部のスペイン植民地は既に独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はプエルト・リコなどと共に僅かに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、駐キューバスペイン軍を強化した。
また隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングがハイチとして独立した後、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、酷い混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。こうしてこのような様々な事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。 その後サン・ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入されて、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると砂糖に加えて、葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルやドミニカ共和国にもあった)。
[編集] 独立戦争
最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・セステベスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ十年余りに渡って続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦が成った。 しかし、ムラートのアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。
1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティ自身は同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまで来た。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫ったある日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして1898年に(スペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。
[編集] 共和政時代(1902年~1959年)
1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピン、グアム、プエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。
1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成し、400年に及ぶスペイン支配から解放され独立を勝ち取ったかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法に盛り込まれたプラット修正条項(Platt Amendment)には、アメリカの内政干渉権をキューバは認める、グァンタナモ、バイア・オンダの二箇所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となってしまった。
「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、精糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、はやくも1906年に反乱行為として結実し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に入らざるを得ない状況が続いた。また、1912年、1916年にも反乱が発生し、アメリカが介入する事態となった。その後も、キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。そのため、アメリカもプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなど、キューバの秩序維持に努めざるを得なかった。
不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラートのフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北した後、キューバは国際連合設立(1945年)や米州機構設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。
1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止した上で独裁政治を開始した。二度目のバティスタ政権は一度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁が続いた。これにより、アメリカのキューバ支配は頂点に達し、バティスタ政権とアメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土に流れるような社会構造が形成された。
1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ(Fidel Castro Ruz)率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基く統治を復活させ、カストロらの政治犯に恩赦を与えた。カストロは、恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成、同志とともにメキシコに亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定により、キューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。
メキシコ亡命後、カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師の“チェ”エルネスト・ゲバラ (Ernesto "Che" Guevara Lynch) と出会い、ゲリラ戦訓練を受けた後、1956年12月にヨット「グランマ号」にのってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でカストロらは壊滅的打撃を受けたが、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年余りのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ。
[編集] キューバ革命(1959年~)
革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生したが、その際に革命政権は、発足後数週間の内に軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。 その後、2月半ばにカストロが首相職に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、精糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化し、農業の集団化を実施するなど社会主義国家の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。
バティスタ政権という傀儡政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、59年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。おりからの冷戦による米ソ対立の影響を受け、アメリカに敵視された革命政権はソ連に接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。アメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業の大企業を国有化した。
1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(プラヤ・ヒロン侵攻事件)。
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共産主義思想 国際組織 人物 出来事 |
1962年2月3日にアメリカのケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連のミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となったが米ソの妥協で危機を回避する事態が起きた(キューバ危機)。これにより、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化したが、1965年にアメリカとキューバは、反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。
なおアメリカは、1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、現在に至るまでグアンタナモにアメリカ海軍の基地を置き続けている。
[編集] 冷戦終結以降(1991年~)
アメリカ合衆国下院は2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれもブッシュ大統領の所属する共和党主導で行なわれた。連邦財務省の試算によれば、2002年に合法的にキューバを訪問したアメリカ人は約16万人で、うち半数はキューバ系アメリカ人、ほかに人権団体、教育関係者、ジャーナリスト、外交官など。それ以外に罰金・禁固刑のリスクをかえりみず、カナダ、メキシコ経由で違法にキューバ渡航する者も多いと財務省当局はみている。レーガン大統領の時代、罰則は25万ドルの罰金と10年の懲役へと引き上げられている。渡航禁止が解除された場合、初年度の渡航者は100万人に達すると財務省は試算。
国連総会は11月4日、アメリカの42年間におよぶ対キューバ通商禁止解除を求める決議を可決(賛成179、反対3、反対はイスラエルとマーシャル諸島、アメリカ合衆国。この決議は今年で12回目)。アメリカ上院はさらに、外交委員会が渡航禁止解除を決議(11月6日)。
ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し拒否権発動の姿勢を崩さない。キューバとの通商はフィデル=カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないというのがブッシュ政権の説明。
アメリカが農産物を輸出する国として、2年前、キューバは第208位であったが、現在は第35位を占めるまで急上昇している。また、かつては世界で有数の砂糖生産国であったキューバも、現在さとうきび畑の大部分を転作化、先頃開かれていたハバナでの国際貿易フェアで、米国からの参加者に砂糖の輸入を打診した。
表向きは経済制裁を継続していたはずのクリントン政権時代にハバナの米国利益代表部は大改築を行ない、現在は巨大なビルへと変貌している。
2006年7月31日、カストロ国家評議会議長 (79) は声明を出し、7月後半のアルゼンチン外遊のきつい日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。また、権限を数週間、弟のラウル同評議会第一副議長兼国防相 (75) に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。
2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領は、カストロ声明に便乗して、「われわれは民主主義を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した(→白色テロ)。
2007年5月、テキサス州エル・パソの連邦地裁は、キューバ航空機爆破に関与した革命傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレスを釈放。
2008年2月19日、フィデル・カストロ国家評議会議長、退任。軍の最高司令官も退任する。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話所持やホテル宿泊、家電製品購入などが自由にできるようになった。
2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。
2008年8月19日、キューバ国立銀行が日本の化学品商社・明和産業への輸入代金の支払に発行した信用状(L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した(デフォルト)。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人日本貿易保険が一部焦付額に保険を適用すると発表した。[1] なお、日本貿易保険はキューバ国立銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている。[2]
国連総会は2008年10月29日、米国に対し、トリチェリ・キューバ民主化・ヘルムズ=バートンの三法廃止と経済封鎖解除を求める決議を、1992年 - 2008年の17年連続で採択(賛成185ヶ国、米国、イスラエル、パラオは反対、マーシャル諸島、ミクロネシアが棄権)[3][4]。
[編集] 略年表
- 1492年 クリストバル・コロン、キューバ島に到着(12月27日)
- 1509年 ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル、キューバ総督に任命
- 1868年 第一次独立戦争(10年戦争)開始
- 1895年 ホセ・マルティ、オリエンテのラプライータに上陸、第二次独立戦争開始。(4月10日)
- 5月19日 マルティ戦死
- 1898年 米西戦争(2月)
- 1902年 独立、エストラーダ=パルマ政権発足(5月)
- 1903年 アメリカ、グァンタナモ湾を租借
- 1952年 バティスタ軍曹のクーデター(3月)
- 1953年 モンカダ兵営襲撃(7月26日)、モンカダ裁判(9月)
- 1955年 フィデル・カストロ恩赦、メキシコへ亡命
- 1956年 グランマ号でオリエンテ州に上陸(12月)
- 1957年 革命幹部会による大統領官邸襲撃(3月)
- 1958年 反乱軍の最終攻勢始まる
- 1959年 バティスタ大統領亡命(1月1日)
- 2月17日 カストロ、首相に就任、革命政権成立(キューバ革命)
- 4月15日 カストロ、ニューヨークへアメリカ政府に対する表敬訪問。アメリカ政府はドワイト・D・アイゼンハウアー大統領がゴルフに出かけたとの理由で首脳会談を拒否
- 5月17日 農地改革法公布
- 1960年 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当廃止の意向発表
- 2月4日 アナスタス・ミコヤンソ連副首相訪問、キューバ・ソ連通商条約調印
- 4月4日 ユナイテッド・フルーツ社の所有地接収
- 6月29日 石油会社テクサコ製油所介入
- 7月1日 石油会社エッソ、シェルの製油所介入
- 7月2日 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当制度を廃止
- 8月6日 アメリカ企業接収
- 1961年 アメリカと外交関係断絶(1月3日)
- 4月4日 傭兵軍航空機によるハバナ等への航空施設爆撃。
- 4月16日 カストロ、社会主義革命宣言
- 4月17日 反革命傭兵軍上陸事件(~19日 ピッグズ湾事件)
- 4月25日 アメリカ、対キューバ全面的貿易封鎖発表
- 1962年 キューバ危機(10月15日)、ケネディ大統領、対キューバ海上封鎖宣言(10月22日)
- 1963年 カストロ、初のモスクワ訪問
- 1965年 キューバ共産党結成
- 1967年 カストロ、チェ・ゲバラのボリビアでの死亡を発表
- 1975年 第一回共産党大会、アンゴラ派兵本格化
- 1976年
- 新憲法(現行憲法)制定
- 傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレス、キューバ航空455便を爆破墜落させ乗客乗員73人全員を殺害
- 1977年 アメリカと利益代表部設置で合意
- 1981年 革命ニカラグアへ派遣した教師が暗殺
- 1983年 アメリカのグレナダ侵攻に抗議して派兵
- 1992年 憲法改正により、キューバを社会主義国家と定義。米国でトリチェリ法[5]成立、ブッシュ大統領が署名
- 1993年 ドル所有の合法化
- 12月22日 カストロの実の娘、アリナ・フェルナンデスがアメリカへ亡命
- 1994年 米・キューバ移民協議、難民問題でアメリカ政府と合意
- 1996年 アメリカでヘルムズ=バートン法[6] 成立、クリントン大統領が署名
- 1999年 アメリカ、対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表、エリアン少年事件
- 2000年 アメリカによる対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表
- 2001年 アメリカからへの食糧購入開始
- 2002年 カーター元アメリカ大統領キューバ訪問。憲法改正
- 2005年 ライス米国務長官、キューバを北朝鮮やイランと並ぶ「圧制の拠点」と発言し、打倒すべき独裁政権の一つにあげた。 キューバ航空機爆破、カストロ議長暗殺未遂など親米テロの廉で逮捕され、保釈後ベネスエラへ逃亡していた傭兵軍のカリレス、アメリカへ亡命を求めて脱出するもマイアミで逮捕される
- 2008年
- 2月 カストロ、国家評議会議長引退を発表
- 2月24日、ラウル・カストロが国家評議会議長に選出。
[編集] 政治
- 政体:社会主義共和制
- 憲法:1976年に現行憲法を制定。1992年、2002年に一部修正。92年修正で、キューバを社会主義国家と定義。02年修正で、「社会主義体制は不可侵(変更不可能)」とする条項を追加。
- 元首:元首職は国家評議会議長。現任はラウル・カストロ(2008年−)。
- 国家評議会:人民権力全国会議(議会)の閉会中に、立法機能を果たす集団指導機関。内閣とは別個の存在。首長は国家評議会議長で、国家元首を務める。
- 議会:立法権行使機関として、一院制の人民権力全国会議(1976年発足)が存在。当初は、代議員を人民権力地方会(地方自治体)の中から選出する間接選挙制を採用していたが、1992年から国民が代議員を直接選出する直接選挙制度に移行した。総数589議席、任期5年。毎年2回定期的に開催され、議員中から31名の国家評議会議員を選出。
- 内閣:内閣に相当する行政機関として、閣僚評議会が存在。閣僚評議会議長・第1副議長・副議長8名・各国家委員会議長11名及び各部長官23名によって構成。首相(政府首班)に相当する閣僚評議会議長は、国家評議会議長が兼任。
- 政党:合法政党は「キューバ共産党」(PCC)のみ。PCCは、党の有力下部組織として「青年共産主義者同盟」を有する。
- 司法:司法権行使機関は、最高裁判所として人民最高裁判所が存在。最高裁判事は、人民権力全国会議が選出。法律の規定により、下級裁判所は州及び自治体ごとに存在。特別裁判所として、国家に対する犯罪を扱う革命裁判所が存在。
- 地方自治体:地方自治をおこなう人民権力地方会として、人民権力行政区会議と人民権力州会議が存在。詳細は地方行政区分を参照。
- 反政府組織:主要勢力として、対カストロ政権強硬派のキューバ系アメリカ人財団(CANF)がフロリダ(米国)に存在。
- 対外関係:非同盟諸国との連帯、反帝国主義、及びに民族解放運動支援が、カストロ政権の伝統的な対外政策の最優先課題。1960年の対ソ連接近にともない、アメリカとは1961年1月3日に国交を断絶。以後、米国から禁輸措置を受ける。近年ではラテンアメリカ諸国の左派政権との間で外交活動を活発に展開、特にベネスエラのチャベス政権との間で関係が親密化。キューバ人医師の派遣、医学を志す留学生の受け入れ(条件付きながら無料で学べる)など、医療支援も活発に行われている。
- 対日本関係:1929年12月21日、国交樹立。1941年12月、太平洋戦争勃発にともないアメリカと共に対日宣戦を布告。1952年11月、サンフランシスコ講和条約締結にともない、国交回復。1960年に通商協定を締結(発効は1961年)。1898年以降、日本人移民がキューバに定住、1999年時点の概数で日系人は800人(財団法人海外日系人協会の資料)。両国関係は、政治・経済の両面で良好。ペルー日本大使公邸占拠事件では、日本政府の要請に対し、キューバがゲリラの亡命受け入れを受諾。音楽やスポーツを通じた民間交流も盛ん。
[編集] 地方行政区分
詳細はキューバの行政区画を参照
歴史的に、キューバは6つの地方行政区分に分けられていたが、1977年の再編成によって現在の区分に改められた。現在、キューバの地方行政地域は14の州(Provincia)と「青年の島」(旧ピノス島)の1特別自治体に区分されており、更に州の内部には169の自治体が存在している。なお、現在の区分は、キューバの独立戦争期に、スペイン軍が軍事上の危険区域を分離すべく用いていた地域区分に類似しているとされている。
キューバは中央集権的な政治体制を採用しており、各州・地方自治体が有する自治権は限定的である。各州には州議会が存在するが、その構成員は住民から間接的に選出される。住民はまず、次に、議会は執行委員会の委員を選出し、その委員は各州に5つ存在する地域議会を構成する。そして、地域議会は執行委員会の委員を選出し、その委員が結集することで州議会が構成される。州議会にも執行委員会は存在し、執行委員会は各段階で議会が有する行政機能の監督を行なっている。なお、特別自治体である「青年の島」のみは、島で一つの自治体を成しており、地方自治関連の諸問題において直接中央政府の監督を受けている。
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| 1 | 青年の島(Isla de la Juventud) | ||
| 2 | ピナール・デル・リオ州(Provincia de Pinar del Río) | 9 | シエーゴ・デ・アヴィラ州(Provincia de Ciego de Ávila) |
| 3 | ハバナ(ハバナ)州(Provincia de La Habana) | 10 | カマグエイ州(Provincia de Camagüey) |
| 4 | ハバナ(ハバナ)市(Provincia de Ciudad de La Habana) | 11 | ラス・トゥーナス州(Provincia de Las Tunas) |
| 5 | マタンサス州(Provincia de Matanzas) | 12 | グランマ州(Provincia de Granma) |
| 6 | シエンフエーゴス州(Provincia de Cienfuegos) | 13 | オルギン州(Provincia de Holguín) |
| 7 | ヴィーリャ・クララ州(Provincia de Villa Clara) | 14 | サンティアーゴ・デ・クーバ州(Provincia de Santiago de Cuba) |
| 8 | サンクティ・スピリトゥス州(Provincia de Sancti Spirítus) | 15 | グァンタナモ州(Provincia de Guantánamo) |
[編集] 主要都市
2003年の推計によれば、キューバ国民の約75%が都市部に居住している。同国最大の都市は、主要な港湾を有する首都のハバナ(現地ではスペイン語でLa Habana「ラ・アバナ」と呼ぶ - "Havana"は英語表現)で、人口は217万6,000人(国民の約20%)である。ハバナ郊外のマリアナオ(Marianao)はビーチリゾートで知られ、周辺域を含めた人口は13万3,016人(1989年)である。
その他の主要都市としては、主要な港湾都市及び工業中心地であるサンティアーゴ・デ・クーバ(40万4,100人)、キューバ島内陸の交通要所及び商業中心地であるカマグエイ(29万4,000人)、豊かな農業地域であるオルギン(24万2,100人)、農産物加工の中心地であるグアンタナモ(20万8,000人)、サンタ・クララ(20万5,900人)、バヤモ(Bayamo、13万7,660人)、シエンフエーゴス(13万2,200人)、ピナール・デル・リオ(Pinar del Río、12万8,800人)、ラス・トゥナス(Victoria de Las Tunas Victoria de Las Tunas、12万6,900人)、マタンサス(Matanzas、12万3,890人)がある。
- 人口数値出典:CUBAVIP. Population.。ただし、マリアナオの数値のみはen.Wikipedia/Marianaoに依拠。
[編集] 地理
キューバの国土は、キューバ島(本島)、「青年の島」(旧ピノス島)、及びに1600余りの小島と多島海から成る広大な群島によって構成されている。
キューバは、フロリダ半島の南145km、ユカタン半島の東に位置し、カリブ海及び大西洋とメキシコ湾を結ぶユカタン海峡及びフロリダ海峡を、国土の西部及び北部が押さえる要衝にある。国土の東部は、大西洋とカリブ海を結ぶウィンドワード海峡によってイスパニョーラ島と隔てられ、北東部はバハマ水域(ニコラス海峡、及びにオールドバハマ海峡)によってバハマ諸島、南部はケーマン海峡によってジャマイカ島及びケイマン諸島と隔てられている。
キューバの国土は、南北アメリカ大陸、及びヨーロッパとの間を結ぶ航路と接し、交易を行う上で恵まれた位置関係にある。そのため、キューバは古くから通商の要衝として経済的に栄え、かつては「メキシコ湾の真珠」とも呼ばれた。現在、キューバの周辺には、北から時計回りの順に、アメリカ、バハマ、英領タークス・カイコス諸島、ハイチ共和国、ジャマイカ、イギリス領ケイマン諸島、メキシコが存在している。
[編集] キューバ島
キューバの本島であるキューバ島(Isla de Cuba)は、西インド諸島に属するカリブ海で最大の島である。コロンブスの同島「発見」時にはスペイン王国の王族にちなんでフアナ島(Isla de Juana)と命名されたが、後にキューバの呼び名が一般化し現在に至っている(キューバの由来は国名参照)。島の南西には、キューバでキューバ島に次ぐ大きさを持つ「青年の島」が浮かんでいる。
キューバ島の長さは、西端のサン・アントニオ岬から東端のマイシ岬まで約1225km、南北の距離は最大250kmから最小35kmで平均値は80kmと、東西に細長い形状をしている。島の4分の1は山岳地帯となっているが、山地が島の全域に散在していることから、島に山塊は無い。主要山岳地帯としては、西部にオルガノス山脈(標高914m)、中央部にトリニダー山脈(標高1200m)、南東部にマエストラ山脈という3つの異なる山系がある。
東方山系であるマエストラ山脈は、クルス岬からマイシ岬まで南海岸に沿いながら、250kmに及んで連なっている。他の山系と比べると一番長く複雜で、この山脈に属する標高2,005mのトゥルキーノ山は、キューバの最高峰としてそびえている。南方斜面が急な断崖をなす一方で北方斜面は緩慢で、 北方海岸に繋がる山地との間にはカウト川流域の中央低地が発達しており、キューバの主要な農業地域に数えられている。中央部山系であるトリニダー山地は、高度が低く多くの山地群で形成されており、銅・マンガン・ニッケル・クロム・鉄鉱石・タングステン等、地下資源が豊富に埋蔵されている。西部山系であるオルガノス山脈はカルスト地形で、険しい石灰岩の山地・洞窟などが多く、ハバナ付近のコティジャ洞窟が著名である。周辺の丘陵地は、石灰岩の風化土であるマタンザス土壌(Matanzas Clay)で覆われており、肥沃で排水が良く栽植農業地として的合である。
東部と中部、そして西部の山岳地を除けば、島の大部分は200m以下のなだらかな起伏の丘陵地や平野であり、土壌も大半は肥沃で、大規模な機械化農業の生産にも適した土地となっている。しかし、その地形により、島には水量の豊かな長い川が存在せず、200以上の河川の大半は急流を為す小さな川であるために、船舶の航行はできない。主要河川は、島の南東部を流れるカウト川(全長240km)であり、マエストラ山脈を水源とし、グァンタナモ湾に流れ込む。この川は、キューバで最も長い川であり、下流の約100kmは航行が可能な大きさである。また、重要な内陸水路として水力発電にも利用されている。
島は長くて狭く、複雑で入り組んだ海岸線は、全長3735kmにもなる。海岸には約7万km²の大陸棚があり、海岸線には入江、湾、砂州やマングローブ林、サンゴ礁、湿地、大小の岬、半島が多様な景観を造成し、多くの湾が天然の良港となっている。主要な港は、北海岸にハバナ、マタンサス、カルデナス、バイアオンダ、ヌエビタスがあり、南海岸にグァンタナモ、サンティアゴ・デ・クーバ、シエンフエゴス、トリニダーがある。特に、ハバナ港は良港として知られ、通商によって栄えた歴史がある。また、グァンタナモ湾は、1903年以降現在にいたるまで、アメリカ合衆国のグァンタナモ米軍基地(南方軍管轄)が存在することで知られている。
[編集] 気候
キューバの気候は亜熱帯性海洋気候で、ケッペンの気候区分では典型的な熱帯性サバナ気候に属する。年間の平均気温は摂氏25.5度、夏の平均気温は27度、冬の平均気温は21度であり、夏には東風・南東の貿易風、冬には北東の貿易風が吹く。夏には気温のみならず、湿度も80%前後にまで上昇する。しかし、北東の貿易風が吹くため、気温は和らぎ比較的しのぎやすい環境となる。冬には平均気温が20度近くまで下がるが、それでも日中は気温が30度以上になる。
気温の較差が僅かなため、季節的な気候変化は主に降水量によって左右される。乾期は11月から4月、雨期は5月から10月である。年平均降水量は約1,400mmだが、トリニダー山地から「青年の島」にかけての地域では2,000mmに上り、マエストラ山脈以東の地域では1,000mmを下回り、グアンタナモが一番少ない。雨季と同じ時期である6~10月、特に8月から10月にかけて多くのハリケーンが襲来し、主に北西部地域に風水害を与える。
[編集] 生態系
[編集] 天然資源
キューバの国土は、鉱物資源に恵まれている。特に重要視されている鉱物は


