タイガー戸口
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| タイガー戸口 | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム | タイガー戸口 キム・ドク タイガー・チャン・リー |
| 本名 | 金徳(キム・ドク) |
| ニックネーム | 野生の虎 |
| 身長 | 193cm |
| 体重 | 125kg |
| 誕生日 | 1948年2月7日 |
| 出身地 | 東京都葛飾区出身 |
| 所属 | フリー |
| スポーツ歴 | バスケットボール 柔道 |
| トレーナー | カール・ゴッチ ドリー・ファンク・ジュニア |
| デビュー | 1968年 |
タイガー戸口(とぐち)は、東京都葛飾区出身のプロレスラーである。キム・ドク、タイガー・チャン・リーの名でも知られる。在日韓国人2世で、本名は金徳(キム・ドク)。通名は戸口正徳(とぐち・まさのり)である。身長193センチ、体重125キロ(全盛時)。引退宣言はしていないが、2007年現在はセミリタイア状態。
[編集] 経歴
修徳高等学校ではバスケットと柔道で活躍。1967年、大木金太郎の誘いにより日本プロレスに入門。同時期に柔道界からは坂口征二も入門していた事から、この入門に柔道関係者達が激怒し、戸口を奪い返しに会場まで押しかける一幕があった。1968年、柴田勝久戦でデビュー。1969年、アントニオ猪木の新技(卍固め)の名前を一般公募する際の実験台となる。1972年、日本プロレス崩壊直前にアメリカ遠征に出、キム・ドクを名乗る。
帰国後は、日本プロレス時代に付き人を務めていた大木金太郎と韓国師弟タッグを結成して全日本プロレスに参戦。ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組を破り、2度インターナショナル・タッグ王座に就く。また、体格や格闘技経験が拮抗していたことから「鶴田のライバル」と目され、2度のUNヘビー級王座戦を含め、対戦成績は全て引き分けである(1978年9月13日、愛知県体育館におけるUN戦が最も名高い。60分フルタイムの後に5分の延長戦が組まれ、それでも引き分けとなった)。この鶴田との対決は全日本初期の名勝負に数えられる。1979年、それまでのフリーから正式に全日本所属となり、馬場、鶴田に次ぐNo.3の地位を与えられる。ディック・マードックに移っていたUNヘビー級王座への挑戦や、ハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座への挑戦、プリンス・トンガと両A面でテーマ曲のシングルレコードが発売されるなど、ファンの評価は別として、馬場の扱いは天龍源一郎、ロッキー羽田らよりも格上であった。
1981年、IWGPへの参加を唱えて新日本プロレスへ移籍。これは両団体間の引き抜き合戦の中での一コマなのだが、後に本人は移籍の決め手として、「当時アメリカに家族がいて、全日に頼んだが飛行機のチケット代を出してくれなかった。が、新日は往復チケットを毎回用意するとのオファーがあったから」と述べている。また、「このまま全日にいても(全日生え抜きの)ジャンボの上に行けるわけでもないし」とも述べている。新日参戦後すぐに、IWGPアジア予選リーグ戦の名目で猪木とのシングルマッチが田園コロシアムで組まれるが、この試合前に「はぐれ国際軍団」の乱入及び「こんばんは事件」(詳細はラッシャー木村の項を参照)、さらにはスタン・ハンセン対アンドレ・ザ・ジャイアントの歴史的名勝負があり、試合自体の印象が薄くなる不運に見舞われる。その後は日米を行き来し、1982年年末のMSGタッグリーグ戦ではキラー・カーンと組んで準優勝。
1983年3月3日、セントラルステーツ地区でヤス藤井と組み、同地区のタッグタイトルを獲得。また同年夏にタイガー・チャン・リーを名乗りWWFに参戦。MSG定期戦ではミル・マスカラスと闘う。なおこの頃、新日内では軍団抗争が繰り広げられており、キラー・カーンの絡みなどから維新軍団扱いを受けるが、ほとんど新日参戦がなかったため、実体はなかった。1984年のジャパンプロレス勢の新日離脱を受け、手薄となった日本人選手のヘルプの形で新日正規軍扱いとなる。しかし、親交があったとはいえ堂々とジャパンプロレス社長の大塚直樹氏を訪ねるなどの行動があったため、扱いは悪くなり、デビューしたてだったアノアロ・アティサノエ(KONISHIKIの兄)にシングルで負ける。そこで大塚氏の仕掛けでジャパンへの移籍→全日マット復帰を目論むが、馬場の反対で実現せず、しばらく日本を離れる。
1988年に公開されたアーノルド・シュワルツェネッガー主演映画『レッドブル』に出演。冒頭でシュワルツェネッガーのパンチを喰らいサウナの外に吹っ飛ばされるロシアギャングの一員を演じた。
その後は、栗栖正伸とピラニア軍団を名乗ってキム・ドクとして新日本へ、プエルトリコ軍団としてW★INGプロモーションへ、マスクマンとしてWARへ参戦。さらに石川孝志率いる新東京プロレスにも参戦。1999年の馬場の死に際しては、全日本所属でないプロレスラーとしては一番早く弔問に訪れた。その縁あってか、2001年に前年選手の大量離脱に見舞われた全日本へ復帰するも長くは続かず、ミスター・ポーゴの興したWWSへの参戦を最後にプロレスからは離れており、あるNPO団体へ勤務している。
[編集] エピソード
- FMW参戦の噂が流れた事があるが、大仁田厚が「馬場さんを裏切った人だから(使わない)」と否定した。しかし、団体立ち上げ当時にケンドー・ナガサキ(ドラゴン・マスター)やディック・マードックをリングに上げており、FMWフリーク以外のプロレスファンの失笑の対象となった。
- 新日でトニー・ホームと試合をした際、ホームが受け身をとる事ができなかったため、戸口がホームのパンチでふらふらに→戸口がボディスラムでホームを投げる→ぐったりしたホームがパンチ・・・という繰り返しになりコントのようになってしまった。だが、そのホームに橋本真也が連敗するという事態にファンは驚いた。
- プロレス専門誌の名鑑等で、全日離脱後もずっと、ライバル欄には必ず「ジャンボ鶴田」と記載していた。
- 3つのリングネームを名乗りながら、どの名前においても印象的な活躍をしているのは特筆される。当初の区分けでは大木とタッグを組む際は『キム・ドク』、シングルプレーヤーとしては『タイガー戸口』とされていたが、後年になってからはどの状況でも『キム・ドク』を名乗ることが多くなった。
- 松永光弘がメキシコに遠征中、体調を崩し、言葉が通じないので病院にも行けず、現地のプロモーターから試合出場を強要され、困り果てていた時、偶然現地で戸口と出会い、状況を説明すると、医者の手配からプロモーターとの交渉までしてくれ、その事について本当に感謝したそうである。
- アメリカ合衆国への永住権を保持している。
- 日本語、韓国語、英語、スペイン語と4カ国語を話すことが出来る。
- 父親は、竜錦の四股名で十両まで務めていた(戸口が4歳の時に引退)。その縁で小学校4年生の時に父親と一緒に力道山に会った事がある。
[編集] 得意技
- キウイ・ロール
- ツームストーン・パイルドライバー
かける前に相手を右肩に担ぐことや、かけた後にフォールに入り、レフリーの1・2・3のカウントの声と同時に自分でそのカウントの数字を指で作り観客にアピールするのが特徴。
- かんぬきスープレックス
- ニードロップ
