タラント空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| タラント空襲 | ||
|---|---|---|
| ファイル:RM-Cavour-Taranto.jpg 着底した戦艦コンテ・ディ・カブール |
||
| 戦争:第二次世界大戦 | ||
| 年月日:1940年11月11日~12日 | ||
| 場所:イタリア、タラント軍港 | ||
| 結果:イギリスの勝利 | ||
| 交戦勢力 | ||
| イギリス | イタリア | |
| 指揮官 | ||
| A・L・St・T・G・ライスター少将 | I・カンピオニ大将 | |
| 戦力 | ||
| ソードフィッシュ雷撃機21 | 戦艦6他 | |
| 損害 | ||
| ソードフィッシュ雷撃機2 | 戦艦1沈没、戦艦2大破、重巡洋艦1駆逐艦1小破 | |
タラント空襲(—くうしゅう)、ジャッジメント作戦 (Operation judgement) とは第二次世界大戦中の1940年11月11日から12日にイギリス海軍が行った空母艦載機によるイタリアのタラント(ターラント)軍港に対する攻撃である。MB8作戦の一部として実行された。この攻撃でイタリア海軍は戦艦3隻が大損害を受けたのに対し、イギリス側の損害は雷撃機2機のみであった。
[編集] 背景
タラントはイオニア海のターラント湾に面した都市で重要な軍港があり、イタリア海軍の一大拠点であった。
イギリス海軍は第二次世界大戦の開戦前から空母艦載機によるタラント軍港のイタリア艦隊に対する攻撃を考えていた。開戦時の地中海でのイギリス海軍の空母戦力はアレキサンドリアのイーグルとジブラルタルのアーク・ロイヤルの2隻であった。
1940年9月、アレキサンドリアの地中海艦隊に新鋭空母イラストリアスが到着し航空戦力が強化されると、イギリス軍はマルタ島からタラント軍港の航空偵察を行い、港内の様子を詳細に把握、リスター少将によって作戦の具体的な内容が立案された。作戦はジャッジメント作戦と命名され、空母イーグルとイラストリアスの艦載機30~40機により10月21日に実行されることに決定された。しかし、訓練中にイラストリアスで火災が発生し作戦は11月11日に延期された。だが、作戦行動開始の2日前に今度はイーグルで障害が発生し作戦参加が不可能となった。このため作戦はイラストリアス1隻で行われることになりイーグルからソードフィッシュ5機がイラストリアスに移された。
[編集] 推移
1940年11月6日、イラストリアスは戦艦ウォースパイト、ヴァリアント、マレーヤ、ラミリーズなどと共にアレクサンドリアから出撃した。この艦隊はまずマルタまでMW3船団を護衛した。11月10日にマルタ西方でジブラルタルから来た戦艦バーラムなどが合流した。11月11日18時、イラストリアスは巡洋艦4隻と駆逐艦4隻を伴ってタラントの攻撃に向かった。
11日21時タラントの南約272kmでイラストリアスは攻撃隊を発進させた。攻撃隊はソードフィッシュ雷撃機21機で、第1波12機と第2波9機からなっていた。22時58分、第1波がタラント軍港上空に到着した。第1波は2機が照明弾、4機が爆弾、残りの6機が魚雷を装備していた。まず照明弾が投下されると共に爆撃が行われ、続いて雷撃が行われた。この攻撃で戦艦コンテ・ディ・カブールに1本、戦艦リットリオに2本魚雷が命中した。約1時間後第2波(2機照明弾、2機爆弾、5機魚雷)が到着した。第2波の攻撃では戦艦リットリオと戦艦カイオ・ドゥイリオにそれぞれ1本魚雷が命中した。
このほかに、重巡洋艦トレントと駆逐艦リベッチオに爆弾が命中したが共に不発だった。
魚雷を受けた3隻は着底し、リットリオは1941年3月、カイオ・デュイリオは1941年5月まで行動不能となった。だが、コンテ・ディ・カブールは終戦までに修理は完了しなかった。
イギリスの攻撃隊は2機が撃墜された。1機目は第1波でコンテ・ディ・カブールの雷撃に成功した機で、魚雷投下後駆逐艦フルミーネに撃墜された。2機目は第2波のソードフィッシュで重巡洋艦ゴリツィアによって撃墜された。
[編集] 結果と影響
イタリア海軍はもともと余り積極的に行動はしていなかったが、この空襲によってより消極的になり、主力艦はナポリへ移動した。そのため、イギリスの船団攻撃のためにイタリア艦隊が出撃すればメッシーナ海峡を通ることになる。メッシーナ海峡はマルタ島からの偵察機の哨戒圏内に入るため、イギリス軍はイタリア艦隊がイオニア海へ出る前に出撃を察知できるようになり、動向の把握が容易になった。また、イタリアの戦艦3隻を撃破したことによりイギリス海軍は戦艦を地中海から対ドイツ海軍のために自国の海域や大西洋に送ることができ、半年後に起きるビスマルク追撃戦に少なからず影響を与えた。
イギリスのみならず、この空襲はイタリアを含める各国の航空万能論(航空主兵論)を後押しする形になり、1941年12月の真珠湾攻撃、マレー沖海戦と並んで大艦巨砲主義からの転換を求める際にタラント空襲をあげ、戦後もその転換期を示す際に用いることがある。また、日本海軍は真珠湾攻撃の実施にあたり、この空襲を研究したと言われている。実際、タラント(水深12メートル)同様に外洋に比べて真珠湾は水深が浅いためイギリス海軍と同じ手順である、「魚雷に改良を加え、低空で魚雷を投下すること」を真珠湾攻撃で行っている。
