産経新聞
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産業経済新聞、産経新聞(さんけいしんぶん)は、日本の新聞であり、全国紙5紙の1つ。フジサンケイグループの基幹企業の一つである産業経済新聞社が発行している。東京本社版で、全国紙としては史上初となる夕刊の発行を廃止した新聞である。
1933年(昭和8年)6月20日、前田久吉によって大阪で創刊された「日本工業新聞」が前身。
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[編集] 歴史
- 1933年6月20日 ‐ 夕刊大阪新聞社から『日本工業新聞』として大阪市で創刊。
- 1942年11月1日 ‐ 新聞統廃合令で愛知県以西の産業経済専門紙を統合して『産業経済新聞』となる。
- 1950年3月 ‐ 東京でも印刷・発行を開始。紙面を経済紙から一般紙に変更し、全国紙としての基礎を固める。
- 1951年10月 ‐ 『少年ケニヤ』連載開始。
- 1952年2月 ‐ 『週刊サンケイ』創刊。
- 1955年 ‐ 東京発行の『産業経済新聞』が『時事新報』を買収。『産経時事』と号する。
- 1958年7月11日 ‐ 東京発行の『産経時事』を『産経新聞』に改題。
- 1959年 ‐ 大阪発行の『産業経済新聞』を『産経新聞』に改題(東西で異っていた題号を『産経新聞』に統一)。
- 1967年 ‐ フジテレビジョン、ニッポン放送、文化放送とともにフジサンケイグループを結成する。
- 1969年5月 ‐ 題号を『サンケイ新聞』に改題。
- 1973年12月 ‐ サンケイ新聞事件
- 1988年 ‐ 題号を再び漢字の『産経新聞』に戻し、全国紙初の本格的カラー紙面を採用する。
- 1991年1月 ‐ 漫画新聞『コミックサンケイ』発刊。
- 1992年7月 ‐ 産経クーデター発生。
- 2002年3月30日 ‐ 東京本社版の夕刊が廃刊し、同年4月1日より東京で発行される全国紙としては史上初の朝刊単独紙に移行した。大阪本社版は東京夕刊廃刊と同日に廃刊になった大阪新聞と紙面統合し、朝夕刊セット(京阪神通勤圏のみ)を継続している。
- 2004年12月1日 ‐ 大阪新聞社を吸収合併。
- 2005年8月8日 ‐ 大阪本社が浪速区湊町の難波サンケイビルに移転。
[編集] 近年の動向
発行部数は公称219万部で『中日新聞』(東京新聞、北陸中日新聞、日刊県民福井を含めて公称348万部)、『日本経済新聞』(公称300万部)、『東京スポーツ』(中京スポーツ、大阪スポーツ、九州スポーツを含めて公称223万部)に次ぐ業界7位。
大阪、奈良ではシェア20%を超える主要な新聞であり、この2地域で発行部数全体の半分近く(大阪本社版は総発行部数219万部のうち116万部)を占める。しかし関東、関西を除く地域ではテレビ・ラジオ欄を差し替えただけの地域も多い。法善寺横丁火災時の特集記事に見られるように大阪本社版は一面から地域密着の独自記事を載せることも多い。法善寺横丁の火災がきっかけで、大阪市南部(ミナミ)の活性化を図ろうと、大阪本社が音頭を取って関西の企業・団体などの集まりで『ミナミ活性化委員会』を発足した。
2007年9月1日までに、総支局の統合に伴い東京本社管内の県域版を廃止し、「首都圏・静岡版」「北関東版」「東北版」「甲信越版」にそれぞれ統合し、東京本社管内に於いての実質的な“県版”は廃止された。また大阪本社管内の中国地方と四国地方の県域版も「中四国版」に統一された。発行拠点のない地域では、直売所以外にブロック紙の販売店を通じて委託販売するなどしてカバーしている。
日本国内外の記事を共同通信社や時事通信社からの配信に頼る事が多い。そのため中日新聞、北海道新聞などの多くのブロック紙、地方紙と同じ内容も見受けられる。また金融記事はアメリカの経済専門の通信社ブルームバーグから配信を受けている。
[編集] 紙面・論調
1958年、東京進出による借入金が34億8千万円、手形13億4千万円までかさんだ結果、前田久吉は、住友銀行頭取・堀田庄三に財界からの支援を要請。結果、国策パルプとフジテレビ社長を務める水野成夫が代表取締役に就任し、財界による「はっきりした保守新聞」の要望に答える形での紙面刷新を行った[1]さらに、産経労組が新聞労連より脱退し労使平和協定を結び御用組合となり社内の反対勢力を駆逐、借入金累積額が28億まで膨らみ水野が退陣すると鹿内信隆が社長に就任し、1969年7月には「新聞が本当に不偏不党の立場でまかり通るような安泰なものに、今、日本の国内情勢が成っているでしょうか」「完全と守ろう『自由』、警戒せよ、左翼的商業主義!」 と宣言し不偏不党の放棄と正論路線を打ち出した[1]。1980年代に現社長である住田良能が編集局長となってからこの傾向がさらに強まった[2]。
戦後の日本が無批判に受け入れてきた民主主義・社会主義・進歩主義・平等主義に傾れてはならないと主張し、“このまま放置すれば日本精神の根幹を変えてしまい国の崩壊に繋がる”と訴えている[3]。「『ナンバーワン』よりも『オンリーワン』を目指す新聞である」と公言し「新聞はみな同じではありません」「群れない、逃げない。モノを言う新聞」とのキャッチフレーズの下に独自路線を進むことを宣言した。
[編集] 社説『主張』
1969年4月1日、社説を主張と改題した。1970年から1990年までの20年間、元旦の「年頭の主張」を鹿内信隆社長自ら執筆していた。現在は、論説委員長の担当。「日本が目指すべき方向」を提言していると自負する。
[編集] コラム『産経抄』
一面コラムは前田社長時代、「点心」を掲載していた。前田に代わって社長に文化放送・フジテレビの水野成夫が就任すると、朝刊のコラムを「サンケイ抄」として室伏高信に、夕刊のコラムを「笛」として渡辺一夫に外部委託した連載していた。しかし朝日新聞より引き抜かれた土屋清が編集総長兼論説委員長に就任した際に、編集各部の部会を回って紙面改革の意見を徴したとき、政治部記者の俵孝太郎が「コラム執筆者は内部起用すべきだ、機会を与えられればわれわれも他社並のことはできる」と発言した。その結果、土屋は東西の編集各部長に60人の候補者を推薦させて社内コンペを行い10人を選び、内6人に「サンケイ抄」と「笛」の分担執筆を命じた。 その執筆者は最初、編集総長室の古屋奎二と山本雄二郎が「サンケイ抄」を隔日で書き、日曜日を選外入選組が書いた。古屋が蒋介石秘録執筆の為に抜けた後は、政治部の俵孝太郎がそれに替わり、日曜日を社会部部長の青木彰が担当した。その後、水野成夫の社長退陣に土屋が殉じて退社した後に、青木彰が編集局長に就任すると、石井英夫を専門の執筆者として指名し、以後同人が一人で(月曜掲載分は石井が日曜休暇の為別人の執筆)35年間に渡り書き続けることとなった[4]。2004年12月28日をもって筆者が交代した。メディア批評誌『創』によると、現在では30歳代から40歳代の数人の若手記者による輪番執筆となったという。2008年6月20日の産経新聞によると、現在は皿木喜久論説委員長ら3人の論説委員が交代で執筆するようになったという。「なるほど、こんな見方があるんだ」と納得できる難しいことを判りやすく伝えるコラムと自負している。
[編集] オピニオン『正論』
1973年6月よりはじまったオピニオン欄。毎日、保守系の学者や評論家の執筆した主張を掲載している(2007年より月曜日~金曜日の掲載に変更された)。第一回は猪木正道・防衛大学校校長。
[編集] エッセイ
基本的に毎月第一月曜日、産経新聞の朝刊1面に掲載される。
- 風塵抄 司馬遼太郎 1986年5月~1996年2月
- 月に一度 江藤淳 1996年~1999年
- 日本よ 石原慎太郎 1999年11月~連載中
- 2008年3月20日の紙面刷新により、30日日替わりエッセイと称して二面に毎日日替わりでエッセイが掲載されることとなった。日替わりエッセイの一回目は石原慎太郎の「日本よ」がそのまま掲載された。
[編集] 文化面
『斜断機』という金美齢、日垣隆、山崎行太郎などが土、日、月曜日に交代で執筆するコラムを連載していたが2002年3月31日の日垣隆の「さらば斜断機」をもって終了した[5]。その後、著者を一新し、斜断機時代にはあった反論コーナー『斜断機へ』を廃止して新コラム『断』の連載を開始した。
[編集] 生活面
年金問題や介護、医療といった社会保障制度、医学博士などの専門家による「ゆうゆうLife」というコラムや「イチ押し!レシピ」という日本の全国紙で初だったカラー写真付の献立コーナを連載している。
[編集] 経済面
「暮らしと経済」と称して、月曜から金曜までそれぞれ「女性と仕事」「生活とマネー」「いま、はやりもの」「いきいき関西」「リフレッシュ」についての記事を連載している。
[編集] 読者投稿欄
一面に掲載される「朝の詩」、一般読者の投稿が掲載される「談話室」、著名人や公職にある人間の一般投稿が掲載される「アピール」がある。
[編集] 対・中国
中国共産党を「北京」と呼称する事がある点が特徴である。文化大革命期に共同通信社を皮きりに他紙が次々と国外追放される中、朝日新聞のみが中国国内に残り、以降、産経を除く他社は中国当局の台湾支局閉鎖の要求を呑んで中国に支局を開局した。これとは対照的に、産経新聞は中国当局の要求を一貫して拒否し、結果として1967年に柴田穂記者が国外追放されて以降は、中国に支局を置くことすらない状態で、日本の新聞で最も早く林彪の死亡推測記事を伝える[6]など、むしろ政治的には中国を詳しく報道することとなった。以後、1998年までの31年間、北京に支局を置くことがなかった。1998年に、北京に再び開局した支局を「中国総局」とし、組織上「台湾支局」をその下に配置することで中国支局を再開した。産経新聞がこうして中国の支局を再設置した結果、マスコミ他社もそれに倣って同じ条件で台湾に支局を開局することとなった[7]。
[編集] 対・台湾
産経新聞は古くから蒋介石支持として知られ、国民党政権時代は、日本で最も親中華民国の新聞として知られていた。鹿内信隆は、蒋介石のあとを継いで中華民国総統に就任した蒋経国と会談した際に、蒋介石の日本への恩を忘れないようにとの思いでフジサンケイグループとして箱根彫刻の森美術館に蒋介石の威徳を讃える「中正堂」を建立したと述べている[8]。
鹿内信隆社長時代には台湾の中国国民党政権を支持する立場から日本軍による中国での虐殺行為を肯定する記事やコラムを多数掲載していた[9]。また、鹿内自身が慰安所の設置運営に関与した事を認めていた[10]。
[編集] 対・朝鮮半島
冷戦時代には、反共・親米保守の立場から韓国の朴正煕政権を支持した。北朝鮮に対しては拉致事件を逸早く報道。1996年に“北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)”というような、正式呼称を併置した表現を廃止し、このことで朝鮮総聯から抗議を受けたがその方針を貫いた。その後2002~03年にかけて全国紙やテレビからも正式呼称が消え「北朝鮮」のみの呼称となり、産経はこの呼称の先駆けとなった。最近では単に「北」という表記も使用している。2006年4月には加藤雅己常務が共同通信加盟社の旅行団メンバーとして北朝鮮へ渡った。
1988年3月26日、当時国家公安委員長であった梶山静六が、日本海側から消えている日本人は、「北朝鮮による拉致の可能性がある」と国会ではじめて答弁した。このことを当時、新聞紙面で報道した一般全国紙は、産経新聞のみであった[11]。
[編集] その他
- 日付欄は“平成20年(2008年)1月1日”と元号を先頭に表記している[12]。祝日には1面日付欄に日の丸を表示し、記事中でもスポーツ以外(相撲は元号)の国内関連記事は元号表記をしている。ただし、海外の記事や河野談話など対外関係記事では西暦表記を使用している。
- 東京本社版では夕刊を発行していない(大阪本社版では夕刊を発行している)。「一日の出来事が、丸ごと一紙でわかる」24時間編集の新聞をめざす。世界の一流紙はみな朝刊専門紙である、「夕刊が無くなっても犬は困らない」(当時の産経新聞夕刊廃止広告のキャッチフレーズ)との主張をもって2001年11月7日に夕刊廃止を告知し、翌2002年4月1日に夕刊を廃止した。また、ワンコイン作戦と称して、一部売り朝刊を2002年2月より一部110円から100円に値下げした。
- 2002年2月より駅売り即売版のみ新聞休刊日発行を決め実行に移したが、これは新聞協会加盟各社の反発を招き、清原社長(当時)が新聞協会副会長を辞任する騒動となった。さらに読売新聞がオリンピック特別号外と称して、定期購読の宅配分も含め新聞休刊日にも発行してこれに対抗、朝日新聞など他社もこれに倣って宅配分も含めての新聞休刊日発行を行った。結果三ヶ月で産経新聞は新聞休刊日の発行を中止し、各社も同じく発行を中止した。
- 電子端末やインターネットでの配信など新技術に積極的である。例で言えば、日本初のインターネット配信型の電子新聞、"産経ネットビュー"を2005年から開始している。テレビ電波にデータを重畳して電子新聞を発行したこともあるが普及せず撤退した。
- 発行元の産業経済新聞社は、産経新聞の他にスポーツ紙「サンケイスポーツ」やタブロイド夕刊紙「夕刊フジ」など利益率の高い媒体を多数発行。一方で、本紙と呼ばれる産経新聞の利益率は相対的に低い。これを補うため、グループ各紙は利益の一定額を上納金として本社に納める義務を負っている。
- 他の全国紙を発刊している新聞社はギャンブルや風俗の記事、広告の掲載されるスポーツ紙やタブロイド紙は別法人を設立して発刊しているが産経は産経新聞社本体が発刊している。3紙間の人事異動も盛んに行われており、3媒体の優劣、上下関係はあまりないが、黒字媒体であるサンケイスポーツ、産経に年間20億円もの上納を行っている夕刊フジ[13]に所属する社員からは、産経本紙がステータスを持っていることで異動を求めている者もいる。
- 過去にフジテレビが広告費の名目で億単位の資金援助をしていることが株主総会で指摘されたことがある。しかし、鹿内失脚の後、フジが東証に上場して経営の透明性が求められるようになったため資金援助は難しくなったといわれている。現在は、広告費としてフジテレビより年間20億円が産経新聞に資金提供されている[14]。(紙面にはフジテレビ、ニッポン放送の広告が目立ち、『ニッポン放送女子アナ日記』『―人気アナ日記』など自社グループの関係性の強さが反映された記事も散見される)
- ニューヨーク・タイムスや朝日新聞のリベラルな評論への批判・反論をたびたび表明する。一方ニューヨーク・タイムスには“日本の右派系新聞”と、ワシントンポストやAFP通信には“日本の保守系新聞”と紹介された。ワシントンポストが産経新聞について「1930年代風の軍国主義への復活を希求する暴力的なグループの一員」とする米国民主党活動家(古森義久談)の投書を掲載した。これに対し産経新聞は紙面で反論するとともに反論文の掲載をワシントンポストに要求。後に反論文が掲載された。産経は自らを「国際的にみれば、中道、普通、穏健な報道姿勢」(izaより)であると主張している。
- 全国紙で唯一、縮刷版を発行していない。
- 大阪四条畷の販売店より起こされた裁判の2006年1月の判決で大阪地裁は、送り部数5000部に対し2000部が余っていたと判定した。また、2007年5月の東浅草店の「押し紙」裁判は東京高裁で、解決金として150万円が産経から原告へ支払われることで解決している。
- 2008年5月18日に木村正人ロンドン支局長が、記事「【土・日曜日に書く】木村正人 「JAPAiN」の特効薬」で、ビル・エモット(『エコノミスト』前編集長)に産経新聞は「ナショナリスト(愛国主義者)の新聞」(なのに、もっと自分の国に誇りを持たないといけないぞ)と言われた話を披露している。
[編集] 報道
[編集] 注目を集めた報道
- 1980年、信仰グループイエスの方舟批判キャンペーン記事を張り、他のマスコミの先頭を走る。イエスの方舟やその主宰者に対する大バッシングが展開され、主催者らに対して名誉棄損容疑で逮捕状が発行される事態に発展した。
- 1980年1月7日、日本海沿岸などで相次いだ失踪事件(1977年の能登半島、1978年のアベック失踪事件)について、公安情報や地方紙の失踪者記事をもとにして、外国諜報機関の関与を示唆する報道をおこなった。記事の執筆者は社会部の阿部雅美。アベック失踪事件とほぼ同時期に富山県氷見市で起きた未遂事件があり、現場に残された粗悪な遺留品の品質や、同年夏に外国を発信源とする怪電波が集中して傍受されていることから、これらを一つの事件として報じた初めての事例である。しかし後追い報道がなく、当時は世論も盛り上がらず、執筆した阿部でさえ、「これでもし(拉致された)彼らがどこかから『事情があって出てこられなかった』みたいにひょっこり出てくるようなことがあれば、自分の記者稼業も終わりだろう」と腹をくくっていたという。
- 1992年、スタニスラフ・レフチェンコ元KGB少佐の証言をもとに旧ソ連から日本社会党への資金流入について追求する記事や社説を掲載した。だが、『文藝春秋』6月号におけるレフチェンコのインタビュー中で、産経新聞にも工作を行い、当時の編集局長を取り込むことに成功したとの発言が掲載された。産経はこのレフチェンコ発言に対する反論を1993年5月12日の朝刊に当時の編集局次長、住田良能名で掲載し「彼の発言を多少なりとも信じては気の毒なことになる」と書いて、その証言を全否定した。以後レフチェンコ証言に基づく記事は掲載されず報道は終了した[15]。
- 1993年、テレビ朝日の椿貞良取締役報道局長が、民放連の会合で総選挙について「『非自民政権が生まれるよう報道せよと指示した』『“公正であること”をタブーとして、積極的に挑戦する』と発言していたことをスクープ。一部ジャーナリストから批判を受けたが、その年の新聞協会賞を受賞した[16]。
- 1997年2月3日の朝刊にて、新潟市で1977年に発生した北朝鮮による女子中学生拉致疑惑報道。翌日、衆議院で西村眞悟議員がこの件を取り上げた。この記事を書いた阿部雅美社会部長は上記にある1980年1月の記事がその先見性を評価され、同年度の新聞協会賞を受賞した[17]。
- 1999年5月10日掲載の「久保紘之の天下不穏 沖縄サミット ~コローニアルなにおいの“英断”」中で小渕恵三首相がサミットを沖縄で開催するのを決めたことに対し「国家も家と同じで台所もあれば便所もある。しかし、お客を台所や便所の中で接待する主人がいるかい?」と書き、記事タイトルと合わせ沖縄を便所扱いしていると非難の声があがった[18]。
- 1999年3月6日、広島県の高校が韓国へ謝罪旅行をしていたと報道。
詳細は広島県立世羅高等学校#韓国への修学旅行報道を参照
- 2001年池田小学校児童殺傷事件の校庭に座り泣きじゃくる児童たちの写真で同年度の新聞協会賞を受賞した。
- 2002年1月10日の朝刊で、前年に日本刀愛好グループ刀剣友の会が建国義勇軍及び国賊征伐隊を名乗り脅迫や爆発物を仕掛ける事件をおこして摘発された件で、田中均外務審議官(当時)の自宅に爆発物が仕掛けられた事件は、当時安全確保の為公開されていなかった田中均の住所を犯人グループが知りえたのは犯人グループの一人である救う会熊本理事の木村岳雄が、救う会関連集会で入手した住所を主犯の男に伝えた結果であることをスクープした。
- 2002年小泉首相10月訪中決定との記事を一面にスクープとして掲載したが、同日中に福田康夫官房長官に否定された。以後2006年の小泉退陣まで訪中は実現しなかった。
- 2004年1月6日の朝刊で、イラク戦争後のバグダッドでストリートチルドレンの社会復帰を支援している高遠菜穂子の活動を顕彰する記事を一面写真付きで掲載した。しかし渡航自粛勧告の後に起きたイラク日本人人質事件の報道では、高遠を含めた人質と自衛隊撤退をアピールした人質家族等の批判を繰り返し掲載し、2004年4月11日の産経抄において「誤解を恐れずにいえば、“いわぬこっちゃない”とは、本来、人質になった三人の日本人に対していわねばならぬ言葉だ。イラクでは日本人外交官も殺害されて治安悪化は深まっていた。外務省は再三、最高危険度の『退避勧告』を行ってきたのである」として自業自得と非難し、同4月14日の産経抄では「第一の声明文については、日本のイスラム学者が「非イスラム的だ」 と指摘しているのがまこと興味深い。では何的かというと“日本的だ”と いうのである(中略)これらの声明文には何らかの形で日本人がかかわっているのだろうか」と自作自演説を客観的に報道する。人質の生還後、国民の大勢が支持した自己責任論から、被害者宅へのイタズラ電話が問題となったが、社説「主張」にて「真摯な忠告もあろう」などと、全てがイタズラではないのでは?と論じた。また同年11月に起きたイラク日本人青年殺害事件(同様に日本政府に自衛隊のイラクからの撤退を求めた武装グループが要求を拒否され、人質を殺害)に関する「産経抄」の論評の中で、「この春の日本人人質事件(上記のイラク日本人人質事件のこと)の家族の反応とは、天と地ほどの差がある。若者に両親に似た分別と常識があれば、悲劇は起こらなかったろうにと惜しまれてならないのである。」と上記の人質三人を間接的に批判した。また、2008年8月28日の「産経抄」ではアフガニスタンで拉致殺害された伊藤和也の事件にからんで、「4年前にイラクで拉致された若者たちの幼稚なふるまいとは次元の違う、プロの仕事ぶりだった。」と再び批判した。だが、伊藤も「イラクで拉致された幼稚なふるまい」をした4人と同じく『退避勧告』を無視しての活動継続だった。伊藤が所属していた「ペシャワール会」代表の中村哲も「治安悪化に対する認識が甘かった。」と判断の誤りを認めている。
- 2006年10月、時の総理・安倍晋三が河野談話を踏襲するにあたり狭義の強制性は無かったが広義の強制性はあったとの認識で踏襲したと国会答弁した後に、「主張」において『河野談話 再調査と見直しが必要だ』なる社説を掲載し、「慰安婦問題の論点を広義の強制性にすりかえたメディアがいる」『その後、一部マスコミが「広義の強制性」に論点をすり替えたこともよく知られている。』と批判した。
- 2007年3月10日「主張」において『慰安婦問題 偽史の放置は禍根を残す』と題し“「河野談話」が明確な裏付けもなく慰安婦募集に関する強制性について、旧日本軍の関与を認めたとの誤解を生む”として批判した。過去、1993年9月2日の産経新聞正論では、上坂冬子が、「近年、稀にみる名文といってよい。相手方のささくれ立った気をしずめ、同時にこちらとして外せないポイントだけはさりげなく押さえて、見事な和解にこぎつけている」と評価したこともあった。
- 2007年9月の安倍内閣総辞職、沖縄県民大会を受けて朝日新聞との間で論争を行った[19]。
- 2007年9月25日朝日新聞が朝刊に当日退陣する安倍を「評価すべき点がなかったとは思わない」とする社説を掲載。
- 2007年9月26日産経新聞朝刊で前日の朝日新聞社説の「評価すべき点がなかったとは思わない」について「さすがに良心がとがめたのか」「御為ごかしそのものだ」と批判。
- 2007年9月28日朝日新聞夕刊コラム窓にて「『産経抄』の良心」と題して、朝日は安倍の訪中、訪韓や村山談話、河野談話の安倍内閣での継承をちゃんと評価したとして「事実の確認だけはくれぐれもお忘れなく」と反論。
- 2007年9月29日沖縄で「集団自決を削除した教科書検定」に抗議する超党派の県民大会(仲里利信実行委員長(県議会議長・自由民主党))が開催された(主催者発表で11万人が参加)。
- 2007年9月30日朝日新聞毎日新聞などが一面写真付きで、読売新聞が三面写真付きで、産経新聞は小さな囲み記事で写真の掲載も無しで報道。参加者数は各紙とも11万人(主催者発表)と掲載。
- 2007年10月2日産経抄にて「11万人(主催者発表)が参加した」と掲載。
- 2007年10月3日産経抄にて、9月28日の朝日新聞夕刊コラム窓「『産経抄』の良心」に反論。「事実の確認だけはくれぐれもお忘れなく」と言われたことに対し、朝日新聞が9月30日及び10月1日の記事で沖縄県民大会に11万人と書いたことを11万人は主催者発表の数字でありそれをそのまま載せたことを戦時中に朝日が大本営発表を垂れ流したことにだぶらせて批判し、関係者に聞いた実際の参加者は4万3千人であると報ずる。
- 2007年10月4日朝日新聞夕刊コラム窓にて「『産経抄』の自己矛盾」と題して、産経側に反論。前回の朝日の反論に対して「ほっかむりしたまま」で、沖縄県民大会参加者11万人と報じた朝日を批判する産経に対し、産経新聞も主催者発表11万人をそのまま掲載していることや、当の産経抄自身が10月2日に11万人を掲載していることを指摘して「自ら11万人と繰り返しながら、やはり11万人と書いた朝日をたたく。自己矛盾としか言いようがない」と反論した。
- 2007年10月5日産経は参加者人数を調べるべく記者を沖縄に派遣した(産経新聞iza記者ブログ)。
- 2007年10月7日産経新聞朝刊一面にて「沖縄教科書抗議集会、参加者は「4万人強」 主催者発表11万人にモノ言えず」との記事を掲載。沖縄県警は参加者人数は非公開であるとして産経新聞に参加者数を伝えなかったが、産経は、沖縄県警関係者からの情報として参加者4万2千~3千人と報じた。
- 2007年11月20日付産経新聞朝刊にて、日本会議傘下の全日本学生文化会議の学生達が9月29日の沖縄県民集会について沖縄県民を対象にアンケートをおこなった結果、「参加した」が11.2%だったと報じた。
[編集] 疑義が持たれた報道、スキャンダル
- 1993年11月11日、清沢平・元大昭和製紙副会長への逮捕直前単独インタビューを夕刊に掲載したが、インタビューに答えた人物は弟だったとして翌々日の紙面にて訂正報道した。
- 1995年一連のオウム真理教事件において「警察庁長官襲撃事件 監視カメラに犯人の姿 南千住駅」「横浜異臭事件 毒ガスホスゲンの症状」「オウムに内乱罪適用へ」などの誤報虚報を連発した[20]。
- 2000年10月11日朝刊社会面に掲載した「ノーベル化学賞の白川氏 一貫した『知りたがり屋』」の記事が『日経産業新聞』の記事を盗用していたことがわかり、産経新聞社は13日、日本経済新聞社に陳謝した。産経新聞社は同日付で東京本社編集局長をはじめ、同社会部長、次長、記者ら計5人を減給処分とした。盗用したのは日経産業新聞連載『日本のオリジナリティー』の1997年10月15・16日付「導電性高分子を開発白川英樹氏」の記事で、白川氏の業績を紹介している。
- 2002年、小泉純一郎首相(当時)の初訪朝には民間機を使用し、政府専用機は使用しないことになったとの記事を掲載した。だが同日、読売新聞に自衛隊員とともに政府専用機を使用して訪朝することを前提とした事前調査の記事が掲載された。翌日、読売グループの日本テレビは自社番組ズームイン!!SUPER中の「新聞のミカタ」で、産経新聞のこの報道を“何の根拠あってのことか説明せよ”と批判した。結果的に小泉首相は訪朝に政府専用機を使用し、産経の誤報が確定した。
- 2003年4月28日、毎日新聞『リーダーな女たち』で書かれた“一日ハンストの後に戦争が終わるまでパン断ちをして願掛けをする”記事を誤読し、翌日の産経抄において「戦争が終わるまでハンストをやる。それは勝手だが、驚いたのはそのハンストは、白米・パン・肉を断つものというのだった。世の中には麦めしもあるしそば・うどんもある。魚もスナック菓子も豊富だ。それらは食べ放題であるらしい。これが笑わずにいられるだろうか。」と批判した。
- 2003年10月24日の産経抄で、「偽エチオピア皇帝事件」を引き合いに出して有栖川宮詐欺事件を取り上げたが、前日の毎日新聞コラム『余録』に、ほぼ同じ内容(参考資料が『詐欺師の楽園』(種村季弘著、岩波現代文庫)である点までが同一)が掲載されていた。
- 2004年4月21日、イラク人質事件で人質ビデオ未放映映像の中に内藤正典一橋大学教授の分析結果として「言って、言って」と人質になった3人に発言の促す日本語を話す人物が存在すると一面トップで報道した[21]。しかし、その日の夜の日本テレビNNNきょうの出来事は「イッテ」はイラクの方言で「おまえ」という意味であるとイラク人通訳の証言を交えて報じた。
- 2005年4月15日1面に、第14回地球環境大賞の授賞式に関連して、実際にはそのような事がないにも関わらず、秋篠宮文仁親王が「お言葉」の中で「また今年から、フジサンケイグループが一体となってこの顕彰制度を主催することになり、「環境」と「経済」が両立する持続可能な社会の実現に向けて、ますますその役割を深めていくことを希望します」とフジサンケイグループの主催に言及したとする虚偽の記事を掲載した。産経新聞社は誤りを認め、4月16日2面に該当部分を全面削除した訂正報道を行った。
- 2005年7月19日、茨城県大洗町の教育委員長と教育長が、つくる会教科書を採用しなかった採択協議会に対して再協議を要求、容れられない場合は町独自の判断で購入・使用予定であるとする記事を掲載。教育長は否定。
- 2005年9月28日、いわゆるインテリジェント・デザイン(ID理論)に対して「この理論は多くの科学者が支持しており、IDを推進してるのはキリスト教右派、宗教勢力だと言う主張はIDを快く思わない人間の妄言である。IDを教えず、仮説に過ぎない進化論を公認の学説として扱うのは思考訓練の機会を奪ってしまう。」なる意見を掲載した。しかし、先進国のいかなる学術会議もID理論を支持していない。そもそもこの意見を述べた渡辺久義の専攻は英文学であり、完全に畑違いの学者である。なお渡辺は統一教会の広報誌世界日報や統一協会の下部組織勝共連合の月刊誌世界思想などでもID理論を肯定するコラム等を掲載している。
- 2005年10月25日付夕刊の写真グラフで月をバックにしたコウノトリの合成写真の虚偽報道を行った。記者が合成写真であることを申告せずに出稿、同社としてチェックしきれないまま掲載したことが原因。産経新聞は30日に事実を発表し31日の朝刊一面で「読者に対する重大な背信行為で、新聞報道に対する信頼を揺るがせかねない深刻な問題と受け止める」として謝罪した。
- 2005年11月17日、MEMRI(Middle East Media Research Institute、中東メディア研究所)の「Inquiry and Analysis Series No 251 Nov/15/2005 フランスの暴動に対するアラブ、ムスリム世界の反応」記事と内容が酷似する記事を掲載。問い合わせに対して産経新聞社は記事は提供を受けたと回答した。MEMRIは、苦情を申し入れて産経新聞社はチェックと撤回を行って訂正版を出したと表明。
- 2006年1月23日の朝刊で、「ライブドア電子商店街から決算前に契約料徴収-利益計上後解約し返還」との見出しで虚偽の報道をしたり、2月14日の朝刊では「ライブドアの退職者数が既に数百人」などと事実無根の報道を行ったと翌日のライブドアニュースで社内資料に基づき反論された。
- 2006年2月8日、産経新聞も協力した高砂義勇兵慰霊碑移設と落成を記念する式典が台北郊外の烏来(ウライ)郷で、前総統の李登輝氏や日本の対台湾窓口機関、交流協会台北事務所の池田維代表など、約百人の日台関係者が参列して行われ、産経新聞社から羽佐間重彰取締役相談役が式典に参列したが、高金素梅らの抗議に基づき公園管理者の台北県政府(県庁)が「公有地に建てるものとしては不適切」として一週間以内の撤去を命じ、高砂義勇兵慰霊碑に飾られた多数の日の丸は2月19日に撤去された[22]。
- 2006年3月4日の主張でインドの核保有を是認する旨を主張している。その理由は「インドは民主主義国で、独裁国家などと同列には語れない」というものであり、「日印関係は経済中心に取り組むべき」とも述べている。しかし1998年5月13日の主張では「インドが核による安全保障を標ぼうすればパキスタンや中国を刺激し、亜大陸は不安定になり、それはわが国への脅威なるため、日本はインド、パキスタンの核、ミサイル開発に神経質であらねばならない」と述べており主張は一変している。
- 2006年出資法を元にした高金利が利息制限法の上限金利に基づき違法との最高裁判決が出て消費者金融などの高利貸しが社会問題になると、一貫して消費者金融業者側にたった主張をした。4月15日の社説主張では「簡単な審査でお金を貸すのだから、担保や厳しい審査が必要な銀行融資よりも金利が高くなるのは当然だ。消費者金融はかつて「サラ金地獄」といわれ社会問題化した時代とは様変わりしているのも事実だ。多重債務者問題などは確かに借りる側の自己責任だ。」とし、5月1日の主張では「金利が下がれば、安易な利用者が増え、多重債務者は逆に増えるとの見方もある。高金利には無理な借り入れを思いとどまらせる抑止効果があった、ということも否定はできない 」と高金利を当然と擁護する立場を取った。さらに実際に貸金業制度改革の議論が政府内で進んでくると7月16日の主張において「慎重に検討しなければならないのは、少額短期の貸し付けなどで利息制限法の上限を超える特例金利を認めるかどうかである。上限金利が引き下げられると、融資審査が厳しくなることは避けられない。緊急性の高い当座の資金が必要な事業者などは、貸し倒れリスクが高いと判断され、貸し手がなくなる公算が大きい。破綻(はたん)に追い込まれたり、ヤミ金融を利用するはめになったりするというのは、非現実的な想定とはいえまい。1週間程度の短期ならば、高い金利でも、実際に負担する利息額はそれほど大きくない」と特別金利を認める特例措置が必要との主張を行った[23]。
- 2006年11月26日、南京大虐殺をテーマにしたアメリカ映画『南京』は、“アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」”を踏まえていると紹介。しかし、2007年1月21日付紙面では前記事の訂正を行わずに、プロデューサーのテッド・レオンシスとのインタビューを基に“ジョン・ラーベの日記”と紹介している。
- 2007年1月20日、大学入試センター試験の解答を電子版でフライング掲載。のちに謝罪。
- 2007年5月5日、古森義久記者により、AP通信電を基にした『占領時、米軍も「慰安婦」調達を命令 ホンダ議員「旧日本軍は強制」言明』が書かれたが、原文では米軍は命令ではなく(日本内務省の申し出を受けた)許可をしていた旨記述されていた事が判明。22日に電子版も含めた全記事を訂正。
- 2007年8月16日、第89回全国高等学校野球選手権大会に三重県立宇治山田商業高等学校の応援団の服装をめぐり、「学ランは海軍の軍服で不適切」とする投書を受けて、宇治山田商が県高校野球連盟と協議して学ランをトレーナーに変更したとする内容の記事を掲載した。この記事に対して宇治山田商は、前回の大会でもトレーナーで応援している・県高野連と協議した事実は無く、学ランは暑いからやめたほうがいいと言われたと産経新聞に訂正記事の掲載を申し入れたが、投書は未確認であるが学校関係者への取材に基づいて書いたので真実と確信している・完全に否定されるまでは訂正に応じられないとしている。
- 2007年11月28日、元防衛省事務次官守屋武昌・幸子夫妻逮捕を受けて、幸子被告の実家が宮城県の老舗酒蔵であると報道したが、実際の出身地は茨城県であった。
- 2007年12月10日、日本在住のバングラデシュ人男性がアルカイダ関係者に送金していたかのような記事で名誉を傷つけられたと主張して産経新聞社に330万円の損害賠償を求めた訴訟につき、東京地裁が名誉棄損の成立を認め、同社に330万円の支払いを命じた。
- 2008年2月5日、イギリスの国際戦略研究所(IISS)からの情報として、2007年の1年間に、ロシア海軍太平洋艦隊へディーゼル電気推進対潜潜水艦(SSK)が新たに9隻配備され、戦術潜水艦は合計で8隻増強された、と報じた。しかし、2008年初頭現在、ロシア太平洋艦隊に在籍するSSK9隻(キロ級潜水艦のB-260、B-439、B-445、B-394、B-464、B-494、B-187、B-190、B-345)は、1981~1994年に極東で建造され、1982~1994年に同艦隊へ配備された艦であり(Проекта 877)、更には、1998年以降、ロシア太平洋艦隊へ新たな戦術潜水艦は配備されておらず、2007年に戦術潜水艦が増強された事実は無い(ジェーン海軍年鑑)。
- 2008年4月2日、大阪本社版にて、3月13日に行なわれた大阪府門真市立第三中学校の卒業式において『国歌斉唱不起立 担任全員、指導認める 門真の第三中 「内心の自由ある」』と、君が代斉唱の際に生徒一人を除いて全員が起立しなかった問題を報じたことについて、戸田久和・同市市議会議員が独自調査をおこなった結果、教員達は「立つ立たないは個人の自由。自分で判断せよ」と思想・良心の自由に基づき説明しただけであり、産経は取材もせずに記事を書いた疑いがあると主張し、またこの報道が右翼団体が市役所前で街宣をおこない、市教育長への面談を申し入れる事態を誘発したと主張した[24]。
- 2008年6月20日、朝刊一面「朝の詩(うた)」欄に、読者投稿とされる詩『じぶん』を掲載したが、実は本作は相田みつをの作品『肥料』であった。翌21日付で「おわび」を掲載すると共に相田美術館に謝罪。選者の新川和江も盗作を見抜けなかった。産経新聞広報室によると、投稿者は“家族が書いた未発表のものだと思った”と盗作を否定しているという[25]。
[編集] 批判
- 1983年2月、サンケイ新聞が行政改革キャンペーンに力を入れていることを伝えるテレビCMを放送した。無駄の実例として岡山県倉敷市の市庁舎を映し出し「こんな豪華な庁舎が必要でしょうか!? 行革(行政改革)を強く訴えるサンケイ新聞」というナレーションを流すものであった。倉敷市は「事実誤認だ、市庁舎が大きいのはゴミ処理施設を併設しているからだ。これは地方叩きだ」と抗議した[26]。
- 1992年、「私たちは”国際合同結婚式”を応援します。」「世界平和に貢献する「統一運動」」という統一教会の国際合同結婚式を支持する学者・文化人の会(代表世話人:元筑波大学総長福田信之、世話人:元駐韓大使金山政英、政治評論家細川隆一郎)の意見広告を掲載したことで、「原理運動に反対する被害者家族の会」から批判された。統一教会は以前から「親泣かせ原理運動」と呼ばれたように、家庭問題や「霊感商法」を初めとした様々経済活動に対して社会的な批判があり、同年には核開発疑惑が高まっていた北朝鮮に経済支援を約束するなど、公安警察からも警戒されるような状況にあり、翌1993年には、金丸信による文鮮明の日本入国許可騒動もあって、統一教会を利するこの意見広告の掲載したことは、日本の保守派からも批判された[27]。
- 2000年5月5日の産経抄において西鉄バスジャック事件について「バス乗っ取り事件が憲法記念日に起きたということだけは、まったくの偶然とは思えない」「戦後の日本社会は、憲法の前文そのままに、人々の「公正と信義」を信頼しようというものだった」とし、日本もそんな何が起きてもわからん社会となってるから、改憲して現状に即した憲法を作るよう考えるべきだと訴えたが、後日ウェーブ産経[3]で「おしかりを受けた」と報告した(産経抄筆者石井英夫談)。
- イラク戦争の“大義”をめぐり、時の産経抄筆者・石井英夫は、開戦当時「大量破壊兵器の廃棄を目指す戦いだ」と主張した。大量破壊兵器の捜索が難航するにつれ「独裁政権打倒の是非が、この戦争の大義を問う鍵である」と主張を変え、発見が絶望的になると「戦争に大義や正義を主張するのは無意味」と主張した[28]。
- イラク日本人人質事件では自作自演説を展開していたが、解放された人質が記者会見で「あれは演出というより命令で、あの状況では拒否できない」と発言。翌日の朝刊で「『泣いてくれ』演出認める」と書いたことを、小林よしのりの漫画で批判された[29]。
- えひめ丸事件においては、国益優先と称しアメリカ政府擁護の立場を全面的に打ち出し、“どこの国の新聞か”と一部の関係者による批判を受けたとして、「おしかりの声」(石井英夫談)に対する反論を産経抄など紙面上にて何度も行った。
- 2001年2月11日の主張で「原潜衝突 過剰反応控え原因究明を」と米国に謝罪を求めたり批判したりする態度を控えるべきだと主張。
- 2001年2月20日の主張で「いまこそ問われる危機管理 この不幸を同盟関係の強化に」と訴えた。
- 2001年2月21日の朝刊アピールに「過剰な米国批判は信頼関係損なう」との意見を掲載。
- 2001年2月23日の産経抄において「日米関係の明日のためには感情的な対応を慎まなければならない、と。先日も艦長に対して、土下座して謝れ、という怒りの声が出された。米国の退役軍人の中から、日本船は真珠湾に近づくな、という反日メッセージが発せられた。双方が感情的、あるいは情緒的な反応をエスカレートしていけば日米関係は危うくなるだろう」。
- 2001年3月2日の産経抄で「引き揚げるべきでない。そのまま海の墓標にすべき」と提言。
- 2001年3月3日の朝刊アングルで米国に謝罪と厳罰を求める意見を「そのさなかに“周辺事態”が起きたら、日本政府は一体どう対処するのだろうか」と批判。
- 2001年3月18日の朝刊で珊瑚礁破壊などの環境問題を引き合いに出し「引き揚げを辞退すべき」と主張。
- 2001年9月27日の産経抄で同時多発テロの発生を受けて「実習船「えひめ丸」の引き揚げは一時中断したらどうか。待つことにしたらどうだろうということである。なぜならテロによる大惨事が発生したからだ」。
- 2001年10月17日の社会部発で「「えひめ丸」引き揚げ最終段階 “約束”つらぬいた米海軍」。
- 2001年10月20日の主張で引き揚げ作業が開始されたのを受けて「評価したい米海軍の努力」との記事を掲載する一方で「こうした米国へのある種の“甘え”はこれきりにしたい。」と主張した。
- 2001年10月22日には「事故はハワイ沖でおこったのだし 水産高校の遠洋実習がハワイ沖で行われることが多いのは、米軍によって航路の安全が確保されているからで、米国の好意で米国の庭で実習させてもらっているようなもの」とした上で、謝罪や補償、引き揚げをそれほど言うのなら、日本は自分で日本海の安全を確保し、日本海で実習するように求めた。
- 2001年11月10日の産経抄で「ハワイの海底を鎮魂の場としたいと願った小欄の気持ちはいまも変わらない。」と再度主張した。
- 2002年11月21日の主張で和解交渉の成立を受けて「米海軍の誠意を評価する」とし「仮にこの事故の相手が北朝鮮や他の国々であれば、これほどの対応が望めただろうか」と主張した。
- 沖縄の米軍基地をめぐる報道で米軍兵士による暴行事件について、沖縄で「けしからんコラム」として批判を受けたことへの反論として、2001年7月6日の「産経抄」で、同年6月29日に、沖縄北谷町で起きた米兵による婦女暴行事件について「現場に居合わせた米海兵隊員の証言では、被害者の20歳台女性は午前2時頃、(容疑者が飲んでいた)飲食店でほとんど泥酔状態だったという。米兵がそういう酔った女性に乱暴したとすればまことに許しがたいが、彼は『合意だった』と供述している」「性犯罪は加害者が絶対に悪いことはいうまでもないが、こちらも相手にすきを見せないことである。誤解を恐れずに書けば、日本の至るところで風紀がゆるんでいるのではないか」と書き反論した。
- 広島市長平和宣言を、毎年のように『主張』で批判している。
- 2003年8月7日朝刊主張において、アメリカ同時多発テロ事件に言及した“報復は暴力の連鎖しか生まない”のくだりに「対テロ作戦は国際的合意に基づくものだ」と対テロ戦争を支持。
- 2006年8月7日朝刊主張において、「アメリカの核を非難する前に北朝鮮の核にこそ備えるべきではないか」とした。
- 2007年でも前年に前長崎市長・伊藤一長が平和宣言に北朝鮮の核問題を触れたことを引き合いに、「何故北朝鮮の核開発に触れないのか」と批判。
- 2008年8月6日にも北朝鮮を名指ししなかったことを改めて批判した。[30]。ただし、平和教育については一定の必要性を認めるなどはしていた。
- 2005年7月に原爆慰霊碑破損事件が発生したため、直後の広島平和記念式典で碑文の文言(「過ちは繰り返さない…」)を平和宣言の締めに使ったことに対し「(すべて日本が悪かったと)謝罪の呪縛にとらわれているとすれば残念である」として、文言について占領史観と批判した[31][32]。
- 2008年3月22日、沖縄県で宅配された産経新聞と世界日報に、被害少女を批判し実名と誤解される名前が記されたチラシが折り込まれていたことがわかり、『琉球新報』に批判された。チラシは沖縄県の国旗国歌推進県民会議の惠忠久会長が依頼したもので、被害女性への批判に加え、自民党と公明党支持者は翌23日に予定されていた抗議の県民大会に参加すべきでないという内容であった。産経新聞は琉球新報の取材に対し「チラシの扱いは販売店が判断するが、公序良俗に反する内容は扱わないように注意している」と返答した[33]。
- 2008年8月8日、北京オリンピック日本代表選手団に対する福田首相の「せいぜい頑張って」という激励をネガティブな意味があるかのように報道した。これに対して産経新聞が「せいぜい」の意味を理解していない上に『「せいぜい」をピックアップしてることから福田首相の揚げ足取りに必死なのがわかる。』と批判された。[34]
[編集] 連載漫画
-
- 連載当初から生活面で掲載されていたが、東京本社版は2008年3月20日付から1面に移動。大阪本社版は従来通り生活面に掲載(月曜日~土曜日)
- のんびりいこうよ 赤羽みちえ 生活面(木曜日)
[編集] 過去の連載漫画
- 1967年 1月、手塚治虫の「鉄腕アトム」連載開始(単行本時「アトム今昔物語」に改題)
- 1969年 9月、手塚治虫の「青いトリトン」連載開始(単行本時「海のトリトン」に改題)
- 1972年 うしおそうじの「風雲ライオン丸」連載開始。
- 1981年 松本零士が「新竹取物語 1000年女王」連載開始。
- 1983年 5月、藤子不二雄Aの「夢トンネル」連載開始。(全301回)
- 1990年 夕刊に堀田かつひこの「カボスさん」連載開始。1993年まで掲載。
- 1995年1月1日 永野のりこの「ちいさなのんちゃん」連載開始。1998年8月1日まで掲載。
[編集] 発行所
[編集] 国内の総局
[編集] 印刷工場
仙台、所沢、浦安、千鳥(千葉県浦安市)、横浜※1、大淀(大阪市北区)、北摂(摂津市)、松原、美原(堺市美原区)、岡山、坂出※2
